安全は自分で守るもの

ある性被害者のすばらしいことば


この記事はTEDの記事をそのまま編集したものです。 アイオーニー・ウェルズ: ネットで性暴力について語ること TED 2017/1/30(月) 11:58配信  昨年の4月のことです ある晩 友人の誕生日祝いに 何人かで外出しました みんなで会うのは 数週間ぶりで 久々の再会には ぴったりの夜でした。  
 
その夜の帰り道 私はロンドンの反対側へと戻る 地下鉄の最終列車に乗りました。道中は何事もなく 最寄り駅に到着した私は 家まで徒歩10分の道のりを歩き始めました。角を曲がって自宅のある通りに入り 家が視界に入ったところで背後で足音がしました。不意に現れたその足音は急に迫ってきました。何が起きているのか把握する余裕もないうちに手で口をふさがれ 息ができなくなりました。背後にいた若い男に地面へと引きずり倒され頭を何度も歩道に打ち付けられて顔から血が流れ出しました。私の背中や首を蹴り飛ばしながら 暴行に及び始めた男は助けを呼ぼうと懸命にもがく私の服を引きはがしながら「黙れ」と命令しました。コンクリートの地面に頭を叩き付けられるたびに意識の中で こだました思いは今でも忘れることができません。「これで私の人生は終わりなの?」  
 
まったく気づかなかったのですが 私は駅を出てからずっと後をつけられていたのです。数時間後、私は上半身裸の下着一枚で警察の前に立たされ、体に残った切り傷や痣を犯行の証拠として写真に撮られました。  
 
この瞬間から数週間にわたって私を支配し苦しめた―心の痛みや恥 動揺や憤りなどが ない交ぜになった気持ちはとても言葉では表せません。でも、こうした様々な気持ちを何らかの形にすることで少しずつ消化していけるように整理したいと思い、一番自然に思える方法をとることにしました。文章に書くことにしたのです。 最初は気持ちを吐き出す練習として始めました。暴行犯に宛てた手紙を書き、犯人に1人の人間である「あなた」と呼びかけ、あの晩彼が激しく侵害したコミュニティの一員としての彼に話しかけました。  
 
彼の行いがもたらした様々な余波を強調しながら、こう書きました。「周囲の人々について考えたことはありましたか? あなたの人生にどんな人が関わっているかは知りません。あなたのことは何も知りません。でも、これだけはわかっています。その晩あなたが暴行したのは私だけではないのです。私は娘であり、友人であり、姉妹であり、生徒であり、従姉妹であり、姪であり隣人でもあります。高架下のカフェでコーヒーを出している― 従業員でもあります。私とこうした関係でつながっている人たち全員が 私のコミュニティを作っています。あなたはその全員に暴行を働いたのです。あなたは私が決してあきらめない真実を踏みにじった。私の周囲の誰もが体現している真実― 世界には悪人よりも善人の方が圧倒的にたくさんいるという真実を」。  
 
しかし、決してこの1件のせいで自分のコミュニティや人類全体の連帯感への信頼を失うまいと私は2005年7月のロンドン同時爆破テロを思い起こしました。あの時は当時のロンドン市長や そして私の両親さえも翌日から地下鉄を利用すべきだと主張したのでした。自分たちを不安に陥れた人々によって定義されたり、変えられたりしないためです。  
 
そこで暴行犯にこう語りかけました。「あなたのしたことは爆破テロと同じ。でも私は今後も地下鉄に乗ります。私のコミュニティの人々は夜道を帰ることに不安を覚えたりしません。私たちは終電に乗って帰宅するし、帰り道を独りで歩きます。これが自らを危険にさらす行動だという考えなど受け入れるつもりはないし、社会にも根付かせたくないからです。コミュニティの誰かに 危険が及びそうになったら、私たちは軍隊のように団結し、戦い続けるでしょう。この戦いにあなたの勝ち目はありません」。 この手紙を書いた時には― (拍手) ありがとう (拍手)  
 
この手紙を書いた時は オックスフォード大学での 試験期間中で 大学の学生新聞で働いていました。幸いなことに家族や友人が支えてくれましたが、孤独な時期でもありました。こんな経験をした人を他に知らなかったし、少なくとも知らないと思っていました。ニュースや統計から性暴力がどれほどありふれているかは知っていましたが、こうした経験を公にしている人を 実際1人も知らなかったのです。  
 
そこで ちょっとした思いつきではありましたが、書いた手紙を学生新聞に載せることで オックスフォード大学にいるであろう― 似たような経験や同じ気持ちを持つ誰かに届くことを願いました。手紙の最後で経験談の投稿を読者に呼びかけました。 #NotGuilty(#私は悪くない)というハッシュタグで性暴力の被害者が自分に起きた事件について恥や罪悪感を感じることなく考えを述べていいのだと強調し、私たち全員で性暴力に立ち向かえると示すためです。  
 
全く想定外だったのですが、ほんのひと晩のうちにこの手紙は 一気に話題になりました。あっという間に世界中の男性や女性から何百もの体験談が寄せられ、自分で立ち上げたウェブサイトに 掲載することにしました。ハッシュタグは キャンペーンへと発展しました。    
 
子持ちの40代オーストラリア人女性 夜の外出中にトイレまで男についてこられて何度も股間をつかまれたと書きました。オランダのある男性はロンドン訪問中にデートレイプに遭い、被害を訴えても誰も取り合ってくれなかったそうです。インドや南米の人々からフェイスブックでメッセージが届き、どうしたらキャンペーンを現地で広められるか相談されました。当初寄せられた体験談のひとつはニッキーという女性からで、自分の父親に性的虐待を受けて育ったというものでした。友人たちも話してくれました。つい先週起こった出来事から何年も前の出来事まで想像だにしなかったことばかりでした。  
 
こうしたメッセージが送られてくるにつれ、希望に満ちたメッセージも送られてくるようになりました。性暴力や被害者非難に立ち向かうコミュニティの声が人々に力を与えたのです。オリヴィアという女性は長い間信頼して大切に思ってきた人に暴行を受けた時のことを打ち明けてくれました。「ここに投稿された話を たくさん読みました。こんなに多くの女性が前進できるのなら、私にもできると希望が持てました。多くの話に心を動かされたし 私も彼女たちのように強くなりたいです。きっとなってみせます」。  
 
世界中の人々がツイッターでこのハッシュタグを使い始め 私の手紙は全国紙に取り上げられ、再掲載されました。世界中で数カ国語に翻訳もされました。  
 
ところで、この手紙へのメディアの注目について気になったことがありました。何かが一面を飾るからには― 「ニュース」と称されるからには目新しい、または驚くべきこととして扱われていることになります。でも、性暴力は目新しいものではありません。 他のタイプの不当行為と同じように常にメディアで報じられてきました。しかし、キャンペーンを通してこうした不当行為が単なるニュースではなく、実在の人々に影響を与えた実体験として報じられました。そこでは当事者同士が団結し、必要でありながら 存在しなかったものが作り上げられていきました。経験を打ち明ける場所や、自分は独りではない、自分が悪いのではないという安心感、そしてこの問題が被害者に与える不名誉の軽減につながる開かれた議論です。記事の前面に出ていたのは実際に暴行を受けた人々の声であって、ジャーナリストやソーシャルメディアの コメントではありませんでした。だからこそ、この話がニュースであったのです。  
 
ネット社会である現代では、あらゆる人同士がつながっており ソーシャルメディアが繁栄しています。もちろん社会に変革を起こすのに素晴らしいツールではありますが、おかげで「反応」する文化がどんどん浸透してもいます。「電車が遅れている」といった些細な不平から、戦争、大量虐殺、テロ攻撃といった深刻な非道行為に対してまで、何か不満の表明を見るとすぐに飛びついて「反応」し、ツイートにフェイスブック投稿、ハッシュタグなど自分も反応したと他人に見せるというものです。  
 
このように集団で反応することの問題は、時に何の反応もしなかったことに等しいということです。 結局何もしていないのと 同じですからね。気分は良くなるかもしれませんし、悲しみや怒りの共有に貢献したと思うかもしれませんが、実際には何の変化も起こしていないのです。さらには、本当に世間に訴えかけようとしているような実際に悪事の影響を被った人々の声をかき消してしまいさえします。  
 
同様に心配なのは不正義に対する反応の一部がより多くの壁を作ってしまう傾向にあり、複雑な問題に対して簡単な解決策を出そう 性急に犯人探しをしてしまうことです。イギリスのタブロイド紙のひとつは、私の手紙を掲載する際、こういう見出しをつけました。「オックスフォードの学生、暴行犯を辱めるオンラインキャンペーンを開始」。でも、キャンペーンの目的は決して誰かを辱めることではなく、人々が発言し、耳を傾ける場を作ることでした。挑発的なツイッター荒らしはすぐにさらなる害を生みました。暴行犯の人種や階級を書き立てて自分の偏見に満ちた考えを広めようとしたのです。中には全部がでっち上げだと決めつけてくる人もいました。その人によると、「男性嫌悪のフェミニズムの拡散を狙った自作自演」だそうです 。 (笑)  
 
笑えますよね。まるで私が「みんな! 悪いけど会えない三十路までに全ての男を嫌悪するのに 忙しいの」とでも言ってるかのようです。 (笑)  これは確信があるんですが、そういう人だって面と向かっては 言ってこないはずです。でも、ソーシャルメディア上では画面の向こう側にいて自宅からアクセスしているせいか、自分がしていること 公的な行いであり、他人に読まれ、影響を与えるということを忘れているかのようです。  
 
地下鉄に乗ろうという話に戻りますが、もうひとつの大きな懸念は不当なことに対するネットでの反響が増幅する「騒音」がいとも簡単に私たちを「被害者」として描いてしまうことでした。  
 
これは敗北主義につながります。否定的な状況の後に前向きになったり、変われる機会を見えにくくする― 心理的な壁のようなものです。  
 
キャンペーンが始まる数ヶ月前、いえ、全てが起こる前 私はオックスフォードのTEDxに行き、ゼルダ・ラグレインジの講演を聴きました。ネルソン・マンデラの元個人秘書です。話の中で、あるエピソードが非常に心に残りました。マンデラが南アフリカ・ラグビー協会に訴えられた時のことです。スポーツ不正について 協会の取り調べを要求したためでした。法廷でマンデラはラグビー協会側の弁護士団に歩み寄って握手をし、それぞれの人と相手の言語で会話したといいます。ゼルダは抗議しました。協会が行った不正を考えれば、敬意を払うべき相手ではないと。  
 
マンデラは振り向いてこう言ったそうです。「決して敵に戦いのルールを決めさせてはいけない」と。  
 
この言葉を耳にした時は、これがなぜそこまで大事なのか わかりませんでしたが、大事な気がしてノートに書き留めました。以来この言葉について何度も考えています。  
 
自分に対して不当な仕打ちをした人に復讐したり憎悪を示したりすることは不正義に直面した際の人間の本能のように思えるでしょうが、この悪循環を断ち切る必要があります。不正義という否定的な出来事 肯定的な社会の変革へと転換しようと思うのならば、さもなければ敵に戦いのルールを決めさせ続けることになり、二項対立を生みます。つまり、不正を被った我々は「被害者」となり、彼ら「加害者」と対立させられるのです。テロ事件の後も地下鉄に乗り続けたように、人々をつなげコミュニティを作る プラットフォームを決して敗北に甘んじることのない場にすることが重要です。  
 
私はソーシャルメディアで反応をするなと言っているのではありません。 #NotGuilty キャンペーンを広められたのはほぼ完全にソーシャルメディアのおかげです。でも、不正義に対しての反応はもっとよく考えて行ってほしいと思います。  
 
まずは 2つのことを自問してみましょう。
 
1つ目は「なぜ これが不正義だと思うのか?」 です。私の場合、いくつか理由があります。誰かが私や私の愛する人々を傷つけたから― 責任を問われたり、与えた損害を認識する必要がないという前提の下に実行したからです。それだけでなく、何千人もの男女が日々性暴力を受け、泣き寝入りしているのに社会は他の問題と同じようには時間を割いて報道しません。そして未だに被害者が責められます。  
 
2つ目に自問すべきは「理由を踏まえた上、どうしたらこれを変えられるだろうか?」私たちにとっての答えは、暴行犯や他の人々の責任を問うことでした。彼らが引き起こした結果を突きつけることでした。そして、性暴力の問題が報道で扱われる時間を増やし、あまりに長い間避けられてきた議論を友人や家族の間、メディアで再開し、被害者には自分を責めないようにと強調することでした。  
 
問題を根絶するには、この先長い時間がかかるかもしれませんが、こうすることでソーシャルメディアを社会正義のための有用なツールとして、教育するツールとして、対話を生み出すツールとして、権力を持つ人々に問題を訴え、実際に影響を受けた人々の声に耳を傾けさせるためのツールとして用いることができます。  
 
こうした問いへの答えは容易に見つからないこともあり、実際はまず見つかりません。だからといって、よく考えた上での反応ができないわけではありません。不正義に対する憤りをどうやって転換できるか考えつかないような場合でも、何をできるかではなく、何を「しない」という選択ができるか考えることはできます。さらなる偏見や憎悪で不正義を叩いて、壁を増やさないという選択はできます。実際に被害を受けた人々の声をかき消さないようにすることはできます。不正義について反応したはいいけれど、翌日には話題が移ったからと忘れてしまわないよう気をつけることはできます。  
 
時には、すぐに反応をしないことが皮肉なことではありますが 目下の最善策であることもあるのです。不正義によって、怒り動揺し、血がたぎっているかもしれませんが、どう反応しようかと あえて考えてみましょう。しかるべき責任を問いながらも、不正義に飛びつき 他人を貶めて喜ぶ社会に自ら陥らないようにしましょう。インターネットのユーザーがあまりに忘れがちな「批判」と「罵倒」の区別を忘れないようにしましょう。画面を前にしているからといって発言する前に考えることを忘れないようにしましょう。ソーシャルメディアで騒ぎを起こす時には、実害を受けた人々の訴えをかき消すのではなく、彼らの声を増幅させましょう。インターネットを自分の経験を語っても独りではないと思えるような場所にしていきましょう。  
 
不正義に対するこのような姿勢は、インターネットの根本原理を彷彿とさせます。「情報網を築く」、「信号を出す」、「接続する」― こうした言葉にはどれも人々を「切り離す」のではなく 「つなげる」という意味合いがあります。  
 
「正義」と言う言葉を 辞書で引いてみてください。「罰」という定義より前に「法の執行」や「司法権」よりも前に、こう書いてあります。「正しいことを持続させること」人々がつながり合い、団結すること以上にこの世界で「正しい」ことはほとんどないと思います。ソーシャルメディアでそれを可能にできれば、実に力強い「正義」をもたらすことができるでしょう。 どうもありがとうございました。 (拍手)  
 
 
 
記事入稿部分 「ソーシャルメディアを社会正義について用いるには、もっとよく考えて臨まねばならない」と、ジャーナリストであり、活動家であるアイオーニー・ウェルズは語ります。自身がロンドンで暴行被害を受けた後、暴行犯に宛てた手紙を学生新聞に公開書簡として発表したことが大きな話題を呼び、性暴力や被害者を責めるような行いに立ち向かう、#NotGuilty(#私は悪くない)というキャンペーンが起こりました。この心を動かされるトークで、ウェルズは自身の個人的な経験を共有することによって、いかに他の人々に希望をもたらすことができたかを語り、オンラインで人を辱めるという文化に反対する力強いメッセージを発信します。 ( translated by Moe Shoji , reviewed by Riaki Poništ )